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「すべてのヒントは現場に落ちている」 脇田英人(スポーツマネジメント株式会社代表取締役社長)インタビュー(前編)  

2011年11月30日配信のメルマガより抜粋

 「アマチュアサッカーの環境整備」を理念に掲げながら、サッカーの普及、アマチュアサッカーの底辺拡大に貢献するため2000年7月に創業をしたスポーツマネジメント株式会社。その「スポマネ」で代表取締役社長を務めるのが、脇田英人氏だ。


 サッカー業界ではお笑い芸人ペナルティのワッキーの兄としてよく知られる存在だが、本人も実業団の選手として国体に出場するまでの快速フォワードとして地元愛知県を中心に知られたサッカーマン。


 私の学生時代、早稲田大のサッカー部(ア式蹴球部)への入部は叶わず同好会でサッカーを続けていた際に大会や遠征などでお世話になっていたのが脇田氏であり、スポマネだ。サッカージャーナリストの仕事に就くようになってからも「footies!」という高校生向けフリーペーパーの仕事でスポマネさんとは一緒にお仕事をさせてもらっている。


 今や「サッカータウン」として関東のみならず全国からチームが集まるようになった茨城県神栖市波崎だが、脇田氏はその波崎に「サッカー」を持ち込んだ仕掛人の一人でもある。


 笑顔と明るいキャラクターから誰からも慕われ、代表を務めながらも未だ「現場主義」を貫き大会や天然芝のグラウンド整備に出向く熱心なワークスタイルから誰からも信頼、尊敬されている脇田氏。


 サッカーへの愛、サッカーファミリーへの愛が体全体から、そして生き様から溢れ出ている「ワキさん」に今回インタビューさせていただいた。前半の今回は、サッカー人としての歩みからスポマネを立ち上げるきっかけまでを広く、熱く語ってもらった。



スポーツマネジメント株式会社


http://www.spo-mane.com/


ゆめのはなし 「脇田英人氏」


http://www.blog-surugabank.jp/surugabank/blog/2010/12/221430.html


(c)Ichiro Ozawa



――サッカーとの関わりのスタートについて教えて下さい。


脇田英人(以下、脇田) 私がサッカーを始めたのは、小学校4年生の3学期です。当時は4年生から部活に入れたんですが、周りはみんな野球だったんです。僕もその流れに乗って野球部に入りました。当時の野球部というのも学校の部活ではなく、学校と提携しているクラブチームだったんです。名前も弱そうな「中央ポロリーズ」という名前なんですけど(笑)


 野球部に入って2カ月が経ち、「面白くないな」と。外野をやっていてもボールが全然来ないし。するとサッカーをやっていた友達が「サッカーは面白いぞ」と言われて、誘われていったのがきっかけです。それで「こっちの方が面白いじゃん!」となって、僕は俗に言う部活からスタートしました。


――脇田さんのご出身はどちらですか?


脇田 生まれとするならば、福島県です。育ちで言うと、転勤族だったので福島で2回引越し、東京の練馬、千葉の船橋、そして愛知県の名古屋市。名古屋でしばらく、24歳までいました。


――高校は愛知県?


脇田 愛知県です。そのまま大学も愛知でした。


――サッカーはどこまで現役としてプレーされたのですか?


脇田 一応実業団、社会人までやっていました。そして大学卒業の時、皆さんは当然のように就職活動をしますよね。でも、僕はそれをやる意味がわからなかった。やりたいことはサッカーしかなく、しかし当時サッカーでお金を稼ぐ手段は指導者しかありませんでした。


 卒業は1992年で、Jリーグ発足前年のナビスコカップが行なわれた年でしたが、自分はそこまで(Jリーガーになるほど)のレベルの選手ではなかった。なのでアルバイトをして、サッカーの指導者をすれば「月20何万は稼げる、これでいいや」と思って就職活動も一切しなかったんです。


 だけどたまたまいつも遊びに行っているサッカーショップに行った時に、釜本さんの時代にあった名門チームの名古屋銀行サッカー部が復活して3年目だったんですが、たまたまその部長さんと出会ったんです。


 それで部長さんとコーヒーを飲みに行って、そのままその日の試合を見に来てもらいました。8-0で勝った試合で、7得点1アシストでした。


――それはすごいですね(笑)。


脇田 まあ相手も弱かったんですけどね(笑)。当時僕は足がすごく速かったので。それで「よし、ウチに来い」と言われて。実業団でプレーする機会は今しかない、指導者はまだ先でいいかなと思ったので、大学から実業団へ入団しました。


――そこからの歩みはどういうものでしたか?


脇田 3年間プレーしました。1994年の愛知国体で、当時青年1部と2部があったんですが、2部のほうに呼んでもらって。地元開催の場合は1年前から強化するので、1週間に1回国体チームで集まって練習をするんですよ。ある時は、国体チームだけで遠征に行ったり。


 その時に、ひざの前十字靭帯を切ったんです。当時は手術をするか、しないなら筋肉で補うかでした。手術をすると長くかかるので、結局「翌年の国体に出たい」ということで手術をせずに行きました。結果はどうだったかというと3位だったんですが、最後は試合に出られないぐらい足が痛くなってしまって。


 それで「国体も出られたし、そろそろ良いか」、と思って指導者の道を志しました。大学4年間は高校チームのコーチをやっていたので、指導の現場には自信がありました。しかしさすがに4年も離れると情報は変わっていますから、知識が必要だし経験も必要、それに自分が卒業したところしかルートがないので人脈も必要でした。


 この3つを得るために「サッカーに関わる仕事は他にないか」、と思って『サッカーダイジェスト』誌を見ていたら、ある会社の「サッカー大会運営スタッフ募集」という記事を見つけた。それで見たら全カテゴリ-でやっているから、「行けば人脈を作れるな」と。人脈を作った後に、人を通じて知識や経験を手に入れればいい。


 指導者の道のりのホップ・ステップ・ジャンプでいうところの「ホップ」になるかな、と思って臨んだんです。そうしたら、サッカーというものが今まで指導者と選手の2つしかないと思っていたのが、実際は「サポートする仕事もあるんだ」と知りまして。そこから、どっぷりこの業界に浸かりました。


続きはメルマガ本文にてどうぞ!

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