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「やりたいことがあるなら真っすぐ進めば良いんです」バレンシアで闘う男 中原健聡(カタロハCF練習生)インタビュー(上)【 @ichiroozawa】 

小澤一郎の「メルマガでしか書けないサッカーの話」第115号(2012年10月26日配信号)より抜粋※


 今年1月に福岡大学サッカー部の4選手がバレンシアにあるウラカン・バレンシア(スペイン3部)に練習参加した際、刺激的な特別講義を行なってくれた中原健聡という日本人選手のことを覚えているだろうか?
 
■2012年01月26日 通巻第78号(1/2)
「やって後悔した方がまし」 中原健聡選手(CFポルタル・デル・カロイグ)講演会 第1回

■2012年02月02日 通巻第79号
「誰かの足を折ってでも、絶対につかんでやる」
中原健聡選手(CFポルタル・デル・カロイグ)講演会 第2回


 彼の所属していたチームは地域リーグではあったものの、ホテルの経営者がオーナーを務め、スペイン3部のセミプロチーム以上の高待遇で世界中から選手をかき集めていた。しかし昨季終盤に、チームが突如消滅。オーナーも夜逃げするような形で消息不明となり、中原選手は2シーズン目となる今季に向けて新たなチーム探しを強いられた。

 持ち前のアグレッシブな売り込みとトライアウトでのプレーが認められる形で今夏の一時帰国前にはアルボラーヤというバレンシア市内の育成に定評があるトップチーム(スペイン5部)との契約が決まり、バレンシアに戻ってから2年目の挑戦が始まっていた。
 
 しかし、現状に満足しない中原選手はスペイン中の2部B(スペイン3部)のメールアドレスに自身の履歴書を送りまくって、より上のカテゴリー、レベルでのプレー機会を狙った。

 現在は、「練習生」という形ではあるがバレンシアにあるカタロハCFというテルセーラ(スペイン4部)所属のクラブで契約のチャンスを伺っている。一度その練習を見学しに行ったのだが、練習生がほぼ週替わりで入れ替わる中で選手たちからは生き残りをかけて1回の練習、1プレーに人生を賭けるかのような必死の形相が伝わってきた。

 今回はゆっくりとインタビュー形式で話を聞かせてもらった。おそらく、前回の大学生向けの特別講義同様に皆さんの心に響く話があると思う。このインタビューから現在進行形でスペインで、バレンシアで「闘う男」、中原健聡というフットボーラー、人間の生き様を感じてもらいたい。



(c)Alberto Iranzo



――スペインでの2シーズン目を迎え、現在の活動状況を教えてください。


中原健聡(以下、中原) スペインに戻って約1カ月弱、最初はそれまで練習していたプリフェレンテ・カテゴリーのアルゴラージャというチームと契約に関する話し合いを続けていました。8月には契約と選手登録をすませ、第1節だけ出場しました。監督からはアルゴラージャでプレーしようと話をしてもらいました。しかし、私自身はチャンスがあればすぐ上に行こうという思いなので、日本にいる時からテルセーラ以上のチームにメールを送り続けています。


 今回は2シーズン目なので、バレンシアだけでなくカナリア諸島やマジョルカ方面のチームにも売り込みをかけています。地域によって言葉に若干違いがあると言いますが、スペイン語を喋れるようになってそれで問題無いと思うので、バレンシアにこだわらずにチームを探しています。メールの返事をくれたのがテルセーラ・ディビジョンのグループ6に所属する、バレンシア州のカタロハというチームです。
 
 9月の頭に届いて「一度見てやるから練習に来い」と言われました。ただ、アルゴラージャの練習と時間が重なっていたので、監督には「カタロハのテストを受けたい」と正直に伝えました。最初はもちろんダメだと言われました(笑)。1試合終えただけで契約も結んだばかりですし、「何を言っているんだ」と怒られました。次の日、監督に「今日の練習には行けない」とメールを入れ、テストを受けにいきました。それが水曜日、カタロハが紅白戦や練習試合をする曜日です。
 
 そこでプレーしたところ、次の練習にも来いと言ってもらえました。木曜日はオフ日なので金曜日の練習です。木曜日にはアルゴラージャの練習があったので、アルゴラージャの監督にカタロハでのことを伝え、ここに残る気はないとはっきり言いました。「向こうで契約してもらえるかはわからない」と脅されましたが、それは私自身もわかっていました。万が一カタロハに来なくていいと言われれば所属チームは無くなります。
 
 かといってアルゴラージャを保険にするつもりもなく、無くなってしまえばまた一から探せば良い。失うものは元々何もないですし、辿り着きたい場所はもっと上にあります。カタロハからは「練習には毎回来てくれ」という返事をもらったので、アルゴラージャとは契約解除しました。


――アルゴラージャとはどういう契約だったのですか?解除の際に金銭の動きはありましたか?


中原 お金は発生しました。トリフェレンテのメンバーは全員お金が発生します。Bのメンバーはキャプテンと他に2人くらいだと思いますが、他は全員お金が動きます。子どもたちのコーチ業に携わっている選手であれば、選手活動とは別にまた動きがあります。


――3部以上でのプレーと、より良い条件での契約が希望だったと?


中原 私自身の目的が単純に海外でサッカーをするだけなら、言葉さえクリアすれば下のカテゴリーで楽にプレーできると思います。しかし、もっと上のレベルでとことんやりたいというのが目標なので、プリフェレンテで終わるつもりもなければテルセーラで止まるつもりもないです。セグンダ、プリメーラも狙っています。


 周りの人間は「無理」と言いますが、見ておけという気持ちですね。ここに来た最初から、私のことを信じているのはきっと私だけです。応援してくれる人もいますが、「納得するまで」位の人が多いのではないでしょうか。反対する人は「そんなこと言ってないでちゃんと働け」と言いますね。


 人生を終えるとき、絶対に後悔したくないんです。その後悔しない道を、自分の意志で選択していきたいんです。その中で逆境もあるでしょうし、将来に関して不安もあります。でも、それを何もかも自分で受け止める覚悟があるから、今ここにいます。先のことを誰か人のせいにするのは絶対にしないです。



――海外を目指そうと決めたのはいつ頃ですか?


中原 EURO2008の時です。当時大学2年でしたが、大会中はスペイン代表を見る機会が多く、日本でもたくさん放送していました。それまでは海外のサッカーに対してイメージもないし、日本で報道されているマンチェスター・ユナイテッドがなんとなく有名なんだなというくらいでした。バルセロナのこともよく知らなかったです。一番知っていたのはチェルシーで、それもモウリーニョが監督だったからというだけです。


 EUROでスペインを見た時には衝撃を受けました。スペインは中盤でパスを回しポジションを繰り返し、準備の段階で相手より勝るサッカーを展開していました。将棋やチェスのように見えて、ピッチの中でお互いのスペースを取り合うサッカーです。
 
 大学や高校では少し崩したポジションを取ると、自分と被ることやスペースができることを嫌がる選手が結構いました。スペイン代表はそれを意に介さず、ポゼッションで押し込んでいるから守備も連動してすぐにプレスをかけられます。これは私がイメージしているサッカー、やりたいサッカーだと思いましたね。
 
 代表がこのサッカーですからその国に入ればそのまま触れられる、結果を残せば認められると思い、スペインを目指すようになりました。ドイツやイングランドでフィジカルを前面に押し出したサッカーで勝負をしても、私は正直生き残れなかったと思います。何が通用するのか、それを判断した時に選択したのがスペインでした。


――これまでのサッカー歴を詳しく教えてください


中原 小学校2年生の時に地域のサッカークラブに入団してサッカーを始めました。そのチームも結構強くて、国際大会や全国大会に出場することもありました。ただ、そこで受けた指導に良い思い出はないです。私が今持っている能力や感覚を養ったかと言えば、そうではないと思います。


 中学校では一度サッカーを辞めました。1年生の1年間は続けていましたが、厳しく怒られているうちに楽しくなくなり、「なんで怒られながらサッカーしなきゃいけないんだ」と思いました。点を取らなければ怒鳴られるし、取ってもすぐにボールを持って走れと言われます。それで1回辞めました。もう一度始めるきっかけになったのが2002年日韓ワールドカップです。サッカー自体は好きでしたから自国開催になれば夢中になって見ていました。
 
 試合を目の当たりにする中で、「やはりサッカーからは離れられない」と思ったのですが、一度サッカー部から退部してしまった手前、もう一度入れてくれとは言えず、公園でボールを蹴ったり神社の木を相手にドリブル練習をしていました。木の中ドリブルは意外と難しいですよ。でこぼこしてるし、根っこが出ているので。捻挫もしました(笑)中学の時はチームに復帰しないで、ずっと自分で練習するだけでした。


 高校は地元の公立高校に入りました。私が入学した時には部員も20名弱でしたが、そのくらいの人数だったのが逆に良かったのかもしれません。弱小チームでしたが試合には出られますし、その経験は大きいと思います。ここに来てからも感じますが、練習試合と公式戦の雰囲気はまったく違います。
 
 高校の校長と教頭が、サッカー協会の中で審判と指導者で活躍されている方だったのですが、練習にも顔を出して指導してくれました。顧問はいましたがサッカーの知識はなく、引率はしてくれましたが指導はなかったですね。高校3年の時には講師の先生が新しく赴任されて、最後の大会も4回戦まで進みました。彼が来てからは部員全員のレベルが一気に上がりました。


 大阪体育大学に進むきっかけになったのも、その講師の先生です。大学の進路はサッカーの強いところを考えていて、具体的には阪南大学を志望しており、それをサッカーを一生続けたいという希望とともに先生に話しました。すると「プロにならない限りサッカーを一生続けるのは難しい」と言われました。「日本という国では社会人になってから時間を確保するのが難しい」と。
 
 そこで進めてくれたのが大阪体育大学だったんです。阪南大学と遜色ないレベルで、教員免許を取得すれば部活でサッカーに関われると話してくれました。先生も関西1部リーグの社会人チームでプレーを続けていて、同じような道を僕に示してくれたんです。その話を聴いた時に、大阪体育大学に行こうとすぐに決めました。
 
 ただ私の場合は学力が伴っておらず、先生も一浪は覚悟しなければならないと言いました。案の定、最初は落ちました。しかし、母親と話すと「どうしても行きたいんならやれば?」と言ってもらえました。浪人しながらその先生のいるチームに入れてもらって、勉強しつつサッカーしつつ過ごし、最終的には無事に合格できました。そして在学中にEURO2008を見たんです。



続きは本文にてどうぞ。小澤一郎の「メルマガでしか書けないサッカーの話」第115号(2012年10月26日配信号)より抜粋※

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